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留学生の声

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 コロナの3年間を越えて     18名の外国人留学生の体験

 コロナ下での留学生活      11名の外国人留学生の11通りの体験

 ISEP生として2020年11月末入寮したドイツ人学生からウエルカムキット事業への礼状

 

コロナの3年間を越えて

 

 

 

コロナ禍を経験して、出来た私の夢

(国際社会学部 韓国) 

 

 困難 ―日本入国が出来ず、実家でオンライン授業を受けることに…―

 2020年1月、私はいつものように、冬休みを迎え、バイト先で1か月の休みを取り韓国に一時帰国した。しかし間もなくテレビやニュースで、コロナという新しいウイルスが発見されたことが大きく報道され、全世界が非常状態になったというニュースが流れた。韓国と日本も例外なく、国内でコロナ患者が発生し、入国制限がかかるようになった。これは今までの人生の中で、初めて経験する事だった。私も入国制限により日本に入国できず、1か月を休んで復帰する予定だったアルバイトを辞めざるを得なかった。そして大学も休学しないといけない状況に置かれた。ところが、大学はコロナ禍に対応し、前例のないオンライン授業を実施することを決め、不幸中の幸いに私は韓国にいながら、オンライン授業で大学授業に出席することができた。

 困難の中の新しい発見

 初めてのオンライン授業は、色々な不安を抱えたまま行われた。しかしオンライン授業は、考えたよりも順調に進み、むしろ通学の時間を在宅で有効に使えるメリットで、皆に歓迎された。一方、私は日本でしていたアルバイトを辞めお小遣いがなくなり、お小遣い稼ぎのため実家のコインランドリーでアルバイトすることになった。日本でもコインランドリーを利用したことは何回かあったが、韓国のコインランドリーは洗濯だけではなく、待ち時間を有効に使える空間だった。お店全体が、カフェテリアの空間になっていて、テレビも充電できるテーブルも用意されていた。私は初めて経営者の立場で働けることにワクワクしたが、コロナの影響になり、コインランドリーに訪れるお客様が激減した。私はきっかけはお小遣い稼ぎで始めたが、お店のために色々チャレンジしたいと考えた。他の人気の店舗に行き、マーケティングのやり方を聞いたり、お店の現状把握のために無人店舗ではあるが、対面接客を行った。私は対面接客を行う中で、今までは考えた事のないある事実に気づいた。それは、高齢者は機会に慣れなく、無人店舗の利用ができないということだった。お店の前で悩んで帰る方や、機械の利用が難しく思い洗濯物を持ってそのまま帰るお客様が少なくなかった。コロナにより、対面を避けながらもサービスが利用できるシステムを導入していこうとする世の中の動きの中で、高齢者はその恩恵を受けられる対象になっていない。私はコインランドリーの便利なサービスを、今よりも多くの高齢者に経験していただきたい気持ちで、高齢者に優しいお店作りに挑戦した。昼は対面接客をしながら機械利用を手伝ったり、朝は洗濯物の配達サービスをした。そして機械の操作方法を少しでもわかりやすくするために、高齢者向けの紙のガイドブックを作った。このような取り組みの中で、日々変化する世の中で高齢者が疎外される事なく、皆に優しい世の中にしていきたいという夢を持った。そしてその軸を持って就職活動をし、夢に一方近づけることができた。

 

 

コロナ禍の3年間を振り返って

柏 匡(大学院国際日本後期課程2年 中国) 

 

 東京外国語大学に入学したのは2018年の4月で、その頃はまだコロナの「コ」の字もなく、振り返ってみると、今や信じられないほど自由自在に大学の教室や図書館で勉強できていました。そしてこのような日々が2年後の2020年4月頃のコロナ第1波のピークが襲来したことで終止符が打たれました。今にも鮮明な印象として残っているのはコロナの第1波が来た時、この未曾有のパンデミックにものすごく恐怖していた自分がいました。その時はまだコロナに対する対処法も経験も少ないため、学校にいる時にせよ、アルバイトをする時にせよ、とにかく恐る恐る他人と距離を取りながら行動していました。そして恐怖心に駆られてだんだんマスクを手放せなくなって、家の玄関にも常にアルコール消毒液を置くようになりました。たしか記憶にはマスクとアルコール消毒液が品切れになるくらい皆がコロナに厳重に警戒していました。その後、大学もコロナの感染拡大を防ごうと、2020年の秋学期から非接触型のオンライン授業という授業形式を積極的に取り入れました。今までやってきた対面形式の授業と違って、家にいても先生、ゼミの先輩後輩、そして他の同期生とちゃんとコミュニケーションが取れて最初は新鮮で面白がっていました。しかし、時間が経つにつれて少しずつオンライン授業のデメリットを感じるようになりました。真っ先に直面したのはハード面での問題でした。オンライン授業はパソコンなどの電子機器を使わないといけないが、自分のパソコンはすでに10年落ちの型で、処理能力は大分衰えてきました。そのせいで、オンライン授業の時には度々画面が止まったり、音声が途切れたりするような不具合が起きていました。またパソコンのみならず、授業を受ける際は今まで生で先生の声を聞くのと違って、スピーカーやイヤホンをつけて聞くので、音声環境が授業内容の理解により影響すると言えます。授業の内容をよく聞き取れないことで心の中で引きずって、しまいには授業に集中できなくなることが多々ありました。これらの問題を解決すべく、自分は思い切って新しいパソコンと音質のいいヘッドホンを購入し、やっと授業に身が入るようになりました。このほかにソフト面にも実は問題がありました。Zoomなどのミーティングソフトウエアを使ってオンライン授業を受けているので、ある程度の通信速度が求められます。そのために、自分は2年も住んでいた家賃の安いアパートを解約して、通信環境のいい今のマンションに引っ越しました。今の家は光ファイバー回線が使えて通信環境は以前より快適になりました。その代わりに家賃も以前より2万円ほど上がったのですが、これも勉強のためだと思えば納得が行きます。

 コロナがまだ感染爆発していない3年前には、コロナをただの新型インフルエンザのように私は思って、高を括っていました。しかし、3年後の今もその影響が私の生活の隅々まで残っていて、ここまで私のライフスタイルを変えてくれたのは思いもよらなかったです。たった一つのウイルスが連鎖反応して、人の生活ないしは社会全体にこれほどの天変地異をもたらしたことにただ驚くばかりです。

 

コロナ禍の3年間を振り返って

(大学院博士後期課程 中国)

 

 博士1年のときに,学術振興会特別研究員DC1になり,熱心に研究を行い,3年で博士号を取ると決心した。しかし,その年に,ちょうどコロナが始まり,計画が全て乱れた。

 学部から宮古島の方言を研究しており,修士までに友達から多く借金をし,現地調査をしていた。特別研究員になってから,1年目にアルバイトが禁止されて,学振の研究奨励費で友人に借金を返しつつ,何とか生活をしていた。しかし,コロナの拡大で,予定していた調査が中止になり,研究が大幅に滞っていた。

 2年目に,アルバイトができるようになったが,見つからなかった。依然として,友人に借金を返しつつ,生活していた。また,調査に向けて先行研究を読んだり,調査票を作ったりしていたが,コロナの影響で再び調査が中止になった。

 3年目になると,やっと4月に留学生向けの塾でのアルバイトが見つかったが,コロナの影響で学生が日本に来ることが依然として難しく,仕事がない状態が続き,10月の中旬に辞めさせられた。また,研究が大幅に滞っているため,学振採用期間の中断(2022年10月―2023年3月)および学振の延長採用期間(2023年4月―2023年9月)を申請し,2023年10月から学振採用期間が再開し,2024年4月まで研究員として研究することができる。しかし,実質博士課程は1年延長することになっている。

現在,大学のオープンアカデミーの沖縄語講師として給料をもらっているのみであり,生活も大変厳しくなっている。またアルバイトを探す予定であるが,まだめどが立っていない。物価の高騰で,生活費は以前より多く必要になり,やむを得ず家族から経済的支援を求めた。

 2022年の12月に,博士課程に入って以来初めての現地調査を行った。コロナの影響が薄くなり,調査に行けるようになったが,母語話者の高齢化に伴って,3年前に方言を教えてくださった母語話者は,家族が外部の人との接触を控えてほしいとか,耳が遠くなったなどの理由で,方言を教えてくださらなくなった方もいらっしゃるので,調査がさらに困難になった。しかし,この状況で,あと1年で博士論文を完成させなければならず,精神的につらい面もあり,ストレスも多く溜まっている。

 コロナの影響で,この3年間,一時帰国することもできなかった。コロナの感染者数が減っているとはいえ,マスクの着用は依然として必要であり,元の生活に完全に戻ったとは言えない。世界的にコロナ感染症が完全に収束し,マスクの着用が必要でなくなるまで,あと何年必要なのかわからないが,一刻も早くコロナ禍前の生活に戻られることを期待している。

 

 

 

コロナ禍での「オンライン留学」は本当に何もできないのか

王小寒(総合国際学研究科・国際日本コース 中国)

 

 コロナの影響で、来日できなかった時は確かに悲しかったが、現在振り返ってみれば、何もできないわけではなく、むしろ様々な面で成長できたと思う。以下では、私は中国人留学生として、中国国内で経験した困難なことやその解決方法・行動などを述べようと思う。

 まずは、オンライン授業は確かに不便なところがあるが、うまく利用できたら友達も作れる。私は、2021 年 4 月に東京外国語大学の研究生として合格したが、コロナの影響で 2022 年 4 月までの1年間はずっと中国の実家でオンライン授業を受けてしまった。そして、オンライン授業の不便なところがたくさんあると実感した。例えば、授業の時にカメラが常に オフの状態になっているので、ディスカッションの時に誰と話すのかが把握できず、相手はどのような人なのかもわからない。そして、「いつ入国できるだろう」と毎日考えるほどとても悲しく、絶望な毎日だった。しかし、こういう状態で友達ができないわけではない。日本人とコミュニケーションをしたかったら、授業のグループ分けの時に相手の連絡先を聞 いたり、もし入国が出来たらまた一緒に遊ぼうという約束をしたりすることができると思う。ただ待つだけという姿勢ではなく、自分が何かをするという意識に変えなければならない。

次に、文献探しは手間がかかる作業だと思われるが、非常に困っている時にはチューターや指導教員などに相談する。中国国内でインターネットの情報管理が非常に厳しいのて、Google や CiNii などの検索アプリケーションを使えない。そのため、関連度の低い文献しか手に入らなかったり、重要な文献が手に入らず、ほかの文献の引用でしか内容を知れなかったりと、文献収集に苦労した。また、文献を手に入れられる環境にいることが非常に大事だと実感した。中国では日本の文献を入手するのは難しいので、日本語の研究を行っている私にとっては研究しにくい環境であると思った。しかし、この状況について、指導教員に相談したところ、文献の複写と送付をお願いすることができたので解決した。

最後に、「オンライン留学」は情緒不安定になりやすいが、家族や友人などとの絆が深くなった。私は日本に留学したいという気持ちが強いので、入国できない時には、家で常に元気がなかった。しかし、考えてみたら、これは毎日父と母と一緒に実家で過ごす最後のチャンスであるかもしれないので、積極的に受け入れようと思った。その後、父と母と互いに現在の生活や未来のことなどを話したり、家事や料理の仕方を教えてもらったりした。こういう時間があるからこそ、勉強以外の自分が成長できるのではないかと考えた。

以上のように、コロナ禍の 3 年を振り返ってみれば、「オンライン留学」は悲しいこともあり、嫌なこともあったが、うまく利用できたら何もできないわけではなく、むしろ成長できると思う。

 

 

コロナ禍の3年間を振り返って

陳孜伃(特別聴講生 台湾)

 

 コロナ禍のために、日本の留学が予定より一年遅れになりました。台湾にいった時、毎日日本政府からの入国政策を注目したり、早く緩めるように祈ったりしました。そして一年後2022年の秋、やっと日本に来ました。ワクワクな気持ちで日本の新たな生活を始めようと思って、東京外国語大学の綺麗な寮に入りました。けれども、最初の一週間は授業と活動もなくて、寮の中でも別の学生もなかなか会えずに、寂しいでした。一日の中で少なくとも人間と話したいですので、毎日台湾の友達を電話しました。それで、オンラインの授業とはいえ、幸いに授業が始まって、話す相手ができました。聞いてみると、皆も私みたいな寂しい一週間を過ごして、一緒に何をする友達が欲しいでしたので、皆すぐ友達になれました。それから、運動したいのため、自分からテニス部活のインスタアカウントにDMして、テニス部活を入って、たくさんの日本人と他の留学生と仲良くなれました。それぞれの文化と言語について話し合って、楽しかったです。

 

 どころが、他に少し困ることもあります。それは日本の生活費です。台湾に比べたら、特に交通費と電気代が高いと思います。毎月の末に、三号館の皆さんの話題は自分の電気代の値段と節電の方法です。ある人は暖房をつかないように、できるだけ暖房を無料にできる一階の共有室にいると決めました。ある人はお風呂のお湯の設定を一時的オフします。そして、自分部屋の冷蔵庫のプラグまでを抜くようにする人もいるらしいです。私の場合は節約の同時に、貯金したいですから、バイトをしています。フランスレストランのホールスタッフとして働いています。外国人の私を採用してくれて、本当に感謝な気持ちいっぱいでした。オーナーは私のためにわざと簡単な日本語を使っていますが、でもやはり学校と違って、レストランに聞いたことがない言葉が山ほどあって、フランス料理のマナも学ばなければならないですから、すごく大変でした。でもこの困難な経験にも、貯金のためだけではなくて、未来にいい勉強になれるのでしょう。

 

 日本に来て、外国人に対して、学校の先生とスタッフだけではなく、優しく接してくれた人がたくさん出会いました。コロナ禍のせいで、時々寂しさと厳しさを感じていますが、やっと日本に来られて、日本文化の思いやりを実際に体験できるのはありがたいとおもいます。コロナの間としても、続きの日本生活はもっとたくさんの人々と繋げって、知識と感情の交流ができたら、いいなと思います。

 

 

コロナ禍中の来日体験

リュウタクキン(ISEP 中国)

 いつのまにか、人はコロナの影響下で3年を過ごしました。この三年間には、人の身が危ないパニックの時期もあり、生産が滞って大変な時期もあり、規制が解除される不安の時期もあり、進路が迷った時期もありました……ウイルスは世界中に並々ならぬ影響を与えているに違いありません。しかし、この突然の災難に見舞われた私は、大学生としてほんとうにありがたかったのです。私は生産に従事していないので、経済の圧力は私にとってそんなに重くありません; 私は高齢者ではないので、ウイルスの脅威は私にとってそんなに厳しくありません;私は社会的な職がないので、政治の宣伝にはあまり足を踏み入れる必要はありません。多くの人がこの三年間、不満だけを残して、ついでに生活の中のさまざまな不都合を疫病のせいにしてしまったのです。そういうわけではないと思います。疫病は私たちに多くの遺憾、多くの損失、さらには多くの生命の消失をもたらしましたが、依然として生活の通行証を握っている私たちが、立ち止まる理由はありません。そんなわけで、私は尚コロナの流行っているうちに、日本へ留学することにしました。

 正直なところ、中国人学生として、当時の状況で海外留学を決めたのは簡単ではありませんでした。中国の防疫政策が徹底しているからです。面倒な生活かもしれませんが、身の安全はかなり確保されています。未来のウイルスの状態を正確に予測できる人はいませんから、自ら温室を出るのはかなりの勇気が必要でした。この過程で、私は家族に感謝しています。彼らは私の決定を支持し、経済面で私のストレスを軽減してくれました。

日本に来た後、私は興奮して緊張した気持ちを抱いて、この社会を感じています。私はこれまで日本に来たことがなかったので、明らかに違いを感じました。整った街、シンプルな建物スタイル、現代的な施設など、中国とは少し違っていて、私が予想していた東京の街でした。新宿、上野、渋谷、秋葉原に行ってみましたが、それぞれのエリアには独自の特徴がありました。かつてテレビで見ていた日本のアニメも、今は現実の姿で目の前に現れています。たとえウイルスがみんなの顔にマスクを貼り付けていたとしても、私は間違った決定をしていないと思います。

 私たちはすべて広大な世界の下のちっぽけな箇人にすぎません。多くの場合、多くの物事は私たちのコントロールにありません。失望にしろ、落ち込みにしろ、不安にしろ、私たちは依然としてこの世界に向かいます。ここでは、宮沢賢治の有名な詩を思い出します。

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

 強い心を持ち、ウイルスの時代に打ち勝っていくと祈っています。

 

日本のコロナ政策から感じた温もり

叶涛(大学院特別聴講生 中国)

 日本へ来たのは去年の五月末でした。それはやっと留学生が日本へ入国することができた時期でした。入国する前に、日本の水際対策について色々調べましたが、手続きは思ったより簡単でした。

到着するのは深夜で、1時間ほどで全ての手続きが済みました。案内の仕方がとても分かりやすくて、説明してくださったスタッフの中に中国人もいました。初めて異国に来た私にとって、それはすごく安心感を与えてくださいました。色んな国のスタッフがいてくれることが日本の外国人への気配りでもあると思います。

 そのあと、待機生活に入りました。中国だと部屋へ出ることもできないが、ここでは近くの買い物が許されました。トイレットペーパーや電気ケトルなど必要な物も学校が用意してくださって、おかげで、無事待機生活が終わりました。

日本では、マスクをつけることや手の消毒など、色んな感染防止政策が講じられていますが、強制的な印象はなかったです。夏になってだんだん暑くなったため、屋外で会話がほぼない場合はマスクをつけなくてもいいなど、状況によって、政策が変更される場合もあります。この前NHKラジオで聞いた話ですが、「黙食」によって、生徒たちの間の会話が少なくなり、給食の時間が楽しくなかったになった状況に応じて、「黙食」を見直す動向もあるようです。感染防止は確かに重要ですが、人々の日々の暮らしも大切にされているように感じられます。コロナの影響を受けつつ、市民も政府も元の生活に戻ろうと努力していると思います。私もそこから勇気を得て、もっと前向きになりました。

 日本へ来てまだ一年も満たないですが、日本は優しい社会だと感じています。人に優しいのはもちろん、動物にも、自然にも優しいだと思います。例えば、神社の手水舎には動物用の柄杓があり、公園にも犬のグラウンドがあります。そして、日本の製品も所々自然への配慮が感じられます。

その優しさの背後に、尊重の意が入っていると思います。日本人は動物を人間の大切な仲間と見なし、また自然からいただいたものをも大切にしていると思います。私はその優しさからたくさんの栄養を汲んだような気がします。知識だけではなく、人間としてどうやって生きていくべきかについても色々考えさせていただきました。

 中国に比べて、日本では、コロナの生活への影響はそんなに大きくなかったような気がします。確かに出かけるときはマスクをしなければならないし、キャンセルされたイベントもたくさんありますが、普通に対面授業を受けることができて、旅行に行くこともできます。三年も続いたコロナの中、私は日本で希望を見出したような気がします。どんな状況の中でも、優しさを忘れず、勇気を持って楽しく生きていきたいです。

 

 

コロナ禍の3年間を振り返って

ラーソン・ベンジャミン(大学院博士後期課程 アメリカ)

 

 コロナ・ウイルスは私に大学院生・研究者として、教師として、留学生として悪い影響を与えた。大学院生・研究者として、研究テーマの学習活動を観察する機会が少なくなった。塾で働く教師として、一時的に対面式授業が休講になり、オンライン式の仕事のみでき、そして対面式授業が復帰してもマスクを着けているため生徒の発音を上手く矯正できなくなった。留学生として、経済的な負担を担うことが難しくなった同時に、母国の親戚に会えなくなり手伝いをもらえなくなった。

 私の研究テーマは対面式タンデム学習のアドバイジングである。タンデム学習とは、二人の違う言語を母語にする学生がペアになり、お互いの言語の学習を助けるとうことである。例えば、スペイン語を学んでいる日本人学生が日本語を学んでいるメキシコ人学生と一緒に日本語とスペイン語を学習することである。タンデム学習は主に自律的な学習活動であるが、参加者がどのようにタンデム学習をすればいいか分からない時、アドバイザー(手伝う人)にアドバイスを求める場合がある。コロナ・ウイルスの流行によって、大学でのタンデム学習の活動を全部オンライン式で行わざるを得なくなった。問題のあるペアたちを特定し、援助を提供することが難しくなった。一方、コロナの流行がオンライン式のアドバイジングを試みる機会になっている。

 研究しながら5人家族を養うことがコロナの影響で難しくなった。コロナの流行が始まる時、私が働いている塾の対面式授業が一時的に休講になり、オンライン形式になったため、給料も下がった。その上、英語母語話者である私がオンライン式で生徒の口の動きも見えないから、発音を矯正することができなくなった。そして、討論などを行うことが難しくなった。対面式授業が復帰しても、生徒が全員マスクを着けているため、発音をはっきり聞こえなく、口の動き見れないから、発音の矯正がまだできない。

 留学生として、コロナは「橋を破壊した」という影響があった。私とアメリカにいる親戚が一時的に会えなかった。そして、中国にいる妻の親戚は今も会えない。英語で「Corona baby」と言われる2020年に生まれた長女と2022年に生まれた次女と三女が母国であるアメリカに一回も行ったことがない。そして、親戚の内、アメリカ人のおばあさんのみ会っている。インタネットで連絡取れるが、対面できなく辛い感情である。

 日本の政府が援助金などを出しているし、コロナ審査を実施している。そして、日本の市民は大部分マスク着用に協力している。外国人である私の視点からみると、日本は積極的に感染対策を行っている。それに加えて、入国規制を緩和し、対面式活動を行うことを容易にする仕組みを取れればいいと思う。

 

 

コロナの3年間を振り返る

ックス・ダニエル(大学院 ブラジル)

 

 コロナが流行り出してからもう3年間。どれだけ生活が変わってきたかを考えてみれば、それは大分昔のことのように感じる。思い出せないくらい変わってきたかもしれない。確かにパンデミックという言葉を毎日のように聞く時が来るなんて思いもつかなかった。もちろん病院を見たらウイルスで苦しんでいる人がどれだけいるかすぐにわかるが、それ以外の形で辛い目に遭っている人もいる。病気とともに来た様々な制限が与える影響によって生活が困難な状態になってしまう人のことである。思い出しながら私の経験を語ってみる。

 来日したのは11月で、ちょうど日本でのコロナの感染者が増えていたところだった。日本での生活に対する楽しみの気持ちとパンデミックに対する不安な気持ちが混ざっていた。空港ではPCR検査を受けて陰性。そのあと大学に行くかと思ったが、ブラジルで注射したワクチンが日本で認められないためホテルで隔離するように言われる。日本と同じメイカーのワクチンを受けていますよと自分の書類を見せたら「あなたの国はリストに入ってないからしょうがないよ」という説明をされた。

 16日の隔離の結果は20万円程度の借金を生んだ。日本に来る際はお金を貯めて持ってきてくださいと言われたが、そもそも国でもコロナ禍でみんなが経済的に困っていたのでそんな金額をそのまま持っている人はほとんどいなかったような気がする。いずれにせよ、やっと隔離から出られたのに経済的に不安定な状態になっていた。

 ワクチンを2回だけ打ってきたので3回目以降を日本で打つことになった。その時にワクチン予約制度にびっくりした。ブラジルでは、会場が混まないように年齢と性別に分けられることになっていて、予約は不要。その一方、日本ではインターネットで登録したり日付と時間を早めに予約しないといけないことになっていた。便利に見えるけど実際に不便だと思う。予約したい人が多くて予約できる時間枠はすぐに無くなってしまう。その上に、1と2回目を日本で打っていないせいで書類を郵送したりしないといけない。その結果注射そのものができるのに時間がかかってしまった。もっと効率的な方法がないかなとずっと思っている。

 それらのストレスのなかでいい経験もあった。友達から聞いた私が住んでいる府中市のコロナ禍で経済的に生活に影響があった人のための支援プログラムがあることを知った。その中で毎月無料で食料配分を行う支援に何ヶ月もお世話になった。このように、少しずつ生活が回復してきて、気づいたらコロナの存在が日常の一部になってしまった気がする。

 思い浮かべるのはこれくらいだと思う。この状況に慣れてあまり何も考えないようになってしまった気がするけど、それはやっぱり違う。ウイルスが消えるまでにどれくらいかかるかは知らない。しかしいつかマスクを外しても大丈夫だという時期が来ることを信じたい。この不安定な状況の中でもどうか希望を持ちながら生きていきたいと思う。

 

 

コロナ禍の3年間を振り返って

チョウ カンゲン(国際日本学部 中国)

 コロナが始まって、もう3年経ちました。最初にすぐ終わるだろうと思ったが、第5波、第6波、第7波…これからも続いていそうです。一方、専門家によると、変異したウイルスの重症率と致死率が低くなったため、人々の生活がコロナ前と同じようになりつつあります。私は留学生として、この3年間を振り返りたいと思います。

 厳しい感染状況を踏まえ、外大は一人ひとりの健康を守るため、オンライン授業を始めました。最初に慣れない先生と学生が多かったのですが、私もその中の一人でした。外界の影響ですぐ気が散ったり、相手の表情が見えなくて不安になったりすることがあります。しかし、オンライン授業をネガティブに捉えてしまっても、何も変わりません。よくよく考えてみたら、オンライン授業は悪いことばかりではありません。通学時間を節約することができ、自由に利用できる時間が長くなりました。また、オンライン授業で自分の集中力が鍛えられ、成績が前よりよくなった授業も出てきました。考える視点を変えるだけで、違う世界が見えてきます。

 その後、感染状況の改善とともに、対面授業が増えました。お久しぶりに友達に会うことができ、とても嬉しかったです。しかし、経済的には厳しい状況がまだ続いていました。私の場合は、アルバイト先のシフトは前よりずいぶん少なくなりました。その時、外大からの支援を受け、食券を頂きました。ほぼ無料で食堂でご飯が食べられ、大変助かりました。私と同じような学生もきっとそう思います。

もう一つの悲しいこととして、コロナで帰省ができなくなりました。中国は少し前までゼロコロナ政策を徹底的に行い、すべての入国者に14日の隔離期間が必要とされました。家族に会えなかったが、ビデオ通話で毎週近況報告をしていました。2023年になると、ゼロコロナ政策が終わり、ロックダウンが解除されました。一方、感染者数が一気に増え、私の家族もコロナにかかってしまいました。私はとても心配でしたが、入国時の隔離もいらなくなりましたので、ようやく家族に会えます。友達の中、中国への語学留学をしたい子も数人がいます。その子たちもまもなく待ち遠しい留学ができるようになると思います。

コロナは人々の生活に大きな影響を与えて、多くの「非日常」を「日常」に変えました。「コロナ社会」を生き抜く人々に対して、私自身を含めて、よく頑張りましたと言いたいです。そして、一日でも早く、コロナが終息することを願っています。

 

 

コロナ禍の3年間を振り返って

マリーノ・フランチェスコ・パオロ (ISEP大学院 ) 

 新型コロナウイルスは、私たちが疑いもしなかったもろさとの折り合いを、突然つけさせられたのである。私たちは皆、パンデミックによって友人や家族を失い、かつてないほどの孤独と向き合わなければならなかったのである。留学生の私にとっては、なおさらだった。私はずっと日本に留学したいと思っていたので、東京外国語大学の奨学金を獲得したと知ったときは、大喜びした。残念ながら、私が奨学金を得た2020年は、パンデミックが流行し始め、日本を含む多くの国が新規入国者の受け入れを停止することを決定した時期であり、タイミングが合わなかった。私と同じ境遇の他の多くの同僚とは異なり、私は2年間、深い不安定さを抱えながらも、国境が再び開かれるのを待つことにしたのである。このように、当たり前だと思っていたことが、一瞬にして変わってしまうことに気づかされたのである。

 新型コロナウイルス関連の苦労は、日本に来てからもあった。当時、昨年の春には、イタリアでのパンデミックに対する人々の認識が低下し、マスクを使わなくなった。一方、日本では、コロナウイルスに対する認識が全く違うことにすぐに気づいた。例えば、交換留学中の1年間は講義を受けることができず、寮内では共同スペースを利用することができなかった。そのため、日本では思ったように人と接することができず、悪い影響を受けたことは間違いないと思う。

 この1年間、他の留学生と比較して、日本の他の大学では東京外国語大学とは異なり、新型コロナウイルスの感染防止対策が異なることを知った。例えば、寮内のキッチンなどの共有スペースは、マスクを使用し、使用前後の調理器具を消毒すれば、そのまま使用することができた。また、この1年間で出会った留学生は全員、講義を受けていた。なぜ、日本人の学生と違って、私たち東京外国語大学の交換留学生にはそれがないのか、理解できなかった。当初は、「日本に来られない学生もいるので、みんなに授業に参加してもらいたいから」という理由だったそうである。しかし、実際には、ほとんどの授業で、メンバー全員が物理的に日本にいるため、講義を受けることができた。留学生は日本での留学生活を充実させるべきだと思うので、大学は全学生を対象に対面式の授業を行うべきだと思う。

 総じて、この不安な時期が早く過ぎ去ることを願っている。平穏な生活に戻るには予想以上に時間がかかるようで、私たちは皆、この見えない敵と戦い続けなければならないことに疲れ果てている。 私の唯一の希望は、科学とワクチンである。この1年で、パンデミックの拡大を遅らせることに大きく貢献した。

 

 

あきらめなかった日本留学

ジェンナーロ ペツォーネ(ISEP大学院 イタリア)

 この新型コロナウイルスのパンデミックの2年間は、私にとって大変な時期であった。2020年に日本への留学を始める予定なのに、その予定が2022年5月に延期になった。留学が何度も延期になったので、日本で勉強する夢をあきらめようと思うこともあった。しかし、希望を失わないために、いくら困難があっても日本語の勉強を続けることにしたのである。毎日、新しい漢字、文法や文型、単語を勉強して、そのように続けながら、日本へ行く決意を固めるようにした。

 日本に来て、コロナに対する対策はイタリアとの違いに気づいた。日本で、マスクが使われている。イタリアなら、2022年以降、ウイルスの危険性の認識が弱まり、多くの人がマスクを外すようになった。日本でのウイルス対策は良かったが、2つのことに対する批判がある。第一は、日本への到着に関するもの。4月上旬に来日して対面の授業を受けられた友達と違い、私は5月末に来日し、オンラインだけでの授業を受けることになった。理由はわからないが、コロナがこの遅れをなんとか引き起こしたと思う。また、日本に来てから、春学期に対面の授業を受けられなかった。2つ目は、コロナに対する制限についての問題である。そのため、規制が厳しすぎて効果がないほどということについて考えることが多かったのである。例えば、日本の学寮に入ってからがっかりしたのは、キッチンなどの共同スペースを活用することで、新しい人と知り合うことが難しいことであった。もしそのような場所で入念な消毒とマスクの使用で、問題なく使用できたのだろうと思った。残念ながら、そのような可能性がなかったため、寮内での他者と出会うことが複雑になった。

 それはさておき、大学側のサポートが充実していたことである。学生課では、アドバイスなどを通じて、常に学生をサポートしてくれた。パンデミックが終わったら、日本に残っているコロナに対する規制を一刻も早く撤廃してほしいものである。しかし、多くの人々がより簡単に仕事を見つけられるよう、国の経済が回復することが最大の望みである。そして、いつか日本に戻って仕事ができるようになりたいと思っているが、その前にイタリアに戻って卒業しなければならない。いつ日本に帰れるか分からないが、その前に日本語の勉強を続けて、帰国したときにはもっともっと上手に話せるようになりたいと思っている。そうすると、留学生である私でも就職しやすくなるのを期待している。


 

コロナ禍の3年間を振り返って

                           ダニエル・イヴァノフ(ISEP ブルガリア)                  

 私の名前はダニエル・イヴァノフです。ベルリン自由大学から東京外国語大学に留学しているブルガリア人である。ベルリン自由大学では、日本学を専攻している。今現在、日本で留学中だ。ISEP学生として東京外国語大学のISEPプログラムに入って、留学は2022年4月1日に始まったが、私は2022年5月末までに日本に来ることができなかった。コロナ禍が激した時期に、日本で留学生として最も苦労したことは、留学プログラムの最初の約2カ月間、オンラインの授業を受けたことだった。日本とドイツの7時間の時差は、通常の勉強をする上で大きな障害となった。夜中に授業を受け、昼間に寝なければならなかったのだ。これは体調だけでなく、精神保健にも悪影響を及ぼした。夜間のオンライン授業が2週間続くと、気分が落ち込んでしまった。さらに、自分の日本語があまり上達している気がしなかった。だから、ヨーロッパからオンライン授業を受けるというのは、間違いなくコロナ危機による最大の困難だった。また、日本に来てからも、日本語の授業はオンラインで受けなければならなかった。オンラインの授業中は、対面の授業と違い、すぐに気が散ってしまい、授業にあまり集中できなかったので、少しがっかりした。幸いことに、秋学期には対面の授業も受けられるようになり、オンラインと対面とのミックスする授業は良かったと思う。

 日本に到着し後、気温が非常に高くなった。その上、日本の夏の湿度は慣れるまで大変だった。暑さと湿度の組み合わせで、呼吸がしづらくなってしまった。そんな中、私は外でマスクをするのは無理だと思ったが、日本人の大半はまだマスクをしていた。そのため、外でマスクをしていないと、日本人から批判されるような気がしていた。しかし、熱中症を得ないためには、外でマスクを外さなければならなかった。

 もう一つパンデミック時に苦労したのは、東京外国語大学の国際交流会館に住んでいたが、寮内の共同部屋や施設を一部利用できなかったことだ。コロナ感染拡大を防ぐために閉鎖されたのはわかるが、共同キッチンの設備は使えばと思った場合が多かった。自分の部屋にはキッチンボックスしかないので、作れる料理のバリエーションが少ない。

一方、日本では、コロナウイルスに感染する心配があまりなかった。なぜなら、日本社会が感染拡大に対して、うまく行動したからだ。日本人は常にマスクを着用し、ルールを守っているので、ウイルスからある規則守られながら、東京や日本国内の旅行を楽しむことができた。ドイツでは、何度か長期間のロックダウンがあり、精神衛生上は悪い影響を受けました。そのため、日本はヨーロッパの国よりうまくコロナ禍に対処できたと思う。ただ、留学生の入国をもっと早く許可してくればよかったと思う。うちの大学の学生の中で、日本に行く予定があったにもかかわらず、日本が留学生を全面的に入国禁止にしたため、日本に行けなくなった人を何人か知っている。コロナ禍が始まった2年後その学生は希望を失い、大学を退学してしまった。

 正直に言うと、コロナのパンデミックの時留学生は多くの困難に直面し、一部の学生はその困難を克服することができなかったようだ。しかし、私は最終的に希望を失わず、日本に来ることができて良かったと思う。

 

 

コロナ禍の3年間を振り返って

PEGY PERMATASARI(国際日本学部 インドネシア)

 私はインドネシア出身で、東京外国語大学で国際日本学を専攻している4年生だ。大学入学前に大阪の日本語学校に1年半通ったので、コロナ大流行は留学3年目のことだった。留学して最初の2年間は、多文化交流イベントや飲食店でのアルバイトなど、課外活動を多くしていた。言い換えると、コロナ以前は常に外で何かをしていたため、家にいる時間はほとんどなかった。

 

 2020年に突如発生した新型コロナウイルスにより、私の日本での日常生活は一変した。オンライン授業、アルバイトのシフト時間短縮による飲食店の永久休業、外出の制限など、すべてが新しく、大変な経験だった。講義に関しても、オンライン授業で長時間集中することは難しく、特に1日に3コマ以上ある日は大変だった。その上、父がコロナに感染したとき(幸い回復)、国境の関係でインドネシアに帰れず、そばにいてあげられなかったのが心残りだった。また、もらっていた奨学金が一部しかなかったことや、父に負担をかけたくなかったこともあり、アルバイトの収入が減ることによって、節約する方法も考えなければならかった。

 

 このような困難はあったが、私はコロナ禍に日本に来てよかったと思う点がある。それは、すでにマスクをすることに慣れている日本人の特性が、パンデミック時に安心・安全感を与えてくれたことである。インドネシアでは、多くの人がコロナ禍を信じず、マスクをしないなど、感染拡大防止の政策を無視していた時期があった。実際、マスクをつけることがタブー視されている地域もあり、インドネシアにいる私の家族もどうしたらいいのか戸惑っていたほどだった。それを聞いたときは本当に悲しかったのだが、今はもうその時期が終わったのだと安堵している。

 

 また、コロナでは、大変なこともあったが、新しい発見や経験をいくつも得ることができた。例えば、緊急時の資金準備の大切さを実感したこと、翻訳・通訳のアルバイトを見つけることができたこと、Zoomクラスでランダムにグループ分けされ、より多くのクラスメートと話すことができたことも、コロナのおかげだと思う。そのほかにも、コロナが観光分野の住民の認識に与える影響について、卒論を書くためのヒントを得ることができた。この2年間の成果は、コロナがあったからこそ実現できたものだと思っているので、新型コロナウイルスの存在は、留学中に困難や限界をもたらしたが、今の自分を成長させるきっかけにもなったと思っている。

 

 

コロナ禍の3年間の体験を振り返って

                            楊柳岸(大学院博士後期)

 

 今の私はコロナ禍からの3年間を振り返って、暗い経験より、試練だと思います。

一年目の時、突然に開放的な世界から閉鎖された世界に切り替えて、どうしても慣れなかったです。日差しの良い日、図書館の窓側の席に座って、本を読んだり、論文を書いたりした時間、友達と一緒に食堂で昼ご飯を食べた後、近くの公園を散歩する時間、夏休みの時、ゼミ旅行の時間は全部奪われてしまいました。以前の生活で一番普通なことすらできない絶望に襲われており、狭い家に閉じ込めた私は毎日不安を抱えていたあげく、鬱病にかかりました。その上、研究のことについても大切な時間を無駄にしたと実感していました。ちょうど論文の調査を始めようとする時点、海外へ資料収集に行けなくて、論文の計画を最初から考え直さなければならないからです。

 二年目の時、万事はオンラインという形に慣れてきました。しかし、母国に帰れず、家族に会えない悲しさ、寂しさは募っていました。90歳のお婆さんの健康状態は悪くなって、いつでも倒れる恐れがあります。心配してもどうしようもない無力感に苛まれており、長い間に脱出できませんでした。一方、研究のことは少しずつ進んでいましたが、いろいろな事情で、新しい研究室に移りました。幸いなことに、優しい先生たちの指導をいただいて、国際シンポジウムにも参加しました。初めての英語発表は難しいですが、貴重な経験でした。

 三年目の時、やっとマスク生活に慣れた私は自分自身が無意識の中に少しずつ変えていました。例えば、以前の私は感情の起伏が激しくて、何かある時すぐ落ち着けないです。今の私はどんなことにあっても、冷静に対応できるようになりました。もともと、年末に母国に帰る予定があったが、中国国内でのコロナ感染が広がっていたので、諦めました。

 最近、コロナでなくなった知り合いがいると聞いた後、コロナはやはり想像以上怖いと実感しました。健康は何よりも大切だと再び実感した。それゆえにこそ、今現在の毎日を大切にしながら、生きていきたいと決心しました。

 コロナ禍は私だけではなく、全世界の生態を変えたと言っても過言ではありません。これからの世界、自分の人生はどんなるかわからないですが、どんなに辛くても乗り越えられると信じています。なぜならば、この3年間のコロナと共生している経験があるからです。とにかく、前向きにして、くよくよしないで、新しい日々を迎えたいと思います。

 

 

 

コロナの3年間

GU LINGYU(国際日本学部 中国)

 中国にいた時、私は3年間、閉鎖的な生活を送っていた。病気や試験など特別な事情がない限り学校のキャンパスから出ることは許されず、必要なものはすべてキャンパス内で賄わなければならなかった。いつ、どこへ行っても、健康コードや行程カードなどを準備しておく必要があった。PCR検査のために毎日毎日行列に並び、自由を制限されていた日々を振り返ると、苦しいと思うのは正直なところだ。しかし、そうした心身ともに疲弊し、息が詰まるような予防措置のおかげで、今までは中国で感染者が大量に出なかった。当時は、ウイルスの恐怖よりも、その防疫対策に嫌気がさし、自由な生活を送っている他国をうらやむ気持ちが強かった。

 10月に来日したとき、最初は幸せな楽園にくるような気がした。すべてが自由で、マスクの着用と消毒という最も基本的なことを除けば、基本的にはパンデミック前と同じような普通の生活ができる。しかし同時に、ウイルスへの恐怖を日々感じており、外出するときは一瞬たりともマスクを外さず、外食もほとんどしていない。しかし、それでも東京での生活の豊かさはウイルスへの恐怖を上回り、毎日を楽しく過ごすことができる。

 今年12月に入り、中国が一夜にしてウイルスに関する規制を全て解除し、最初の頃、みんな喜んでいた。しかし、2〜3日もすると大量の感染者が出てきた。その結果、人々は再び恐怖に襲われ、規制がないとはいえ、感染を恐れて外出を控えるようにしていた。1週間足らずの間に、家族や友人もほぼ全員感染してしまった。ちょうど大学院入学試験期間でもあり、多くの受験生が体調を崩している状態で試験を受けなければならなかったし、感染していなくても、毎日恐怖に怯え、勉強に集中することも難しい状況だった。

 パンデミックに対してどのような行動を取るべきかを評価することは非常に難しいと考えている。なぜなら、どのような決断を下すにしても、代償が伴うからだ。国をロックダウンする場合、経済は衰退し、世界から遅れをとり、人々は精神的に疲れるばかりだ。しかし、自由に発展をさせれば、同じように恐怖感をもたらし、爆発的に感染者が増えたゆえに社会の生産性を低下させることになる。

医学の進歩でウイルスの死亡率は下がったものの、病気の苦しみやそれによって生活・学習への影響は無視できない。諸外国の対策を参考にしてみると、中国も感染者が激増した後に平常に戻ると期待できるだろう。しかし、感染者一人ひとりの苦しみは数値で計算できるものではないし、心身に与える影響も統計データでまとめることはできない。

 ウイルスの前では、私たち一人ひとりは小さな存在ではあるが、各界の人々の努力によって、大きな進歩を遂げることができた。ウイルスとの戦いはいつまで続くか分からないが、他人と自分に優しく、共に健康な体で勝利の日を待ちたいと心から願っている。

 

 

コロナ禍の3年間を振り返って

ソヴィンツ・カヤ (ISEP大学院 スロベニア)

 スロベニアでは、コロナ禍がさまざまな弊害をもたらしている。その結果、ストレスのレベルが高まり、我々は、医療や家族、一般的な健康問題に関するライフスタイルの変化を余儀なくされている。さらに、コロナ禍によって学生生活は一変した。アルバイトは減少し、授業はほぼオンラインになり、学生はキャンパスに行く機会が大幅に減り、孤立感が深まっている。

 コロナ禍によって学生生活は大きく様変わった。また、コロナ禍によって課外活動が制限され、多くの学生は孤独感や孤立感を感じた。また、新型コロナウイルス禍は、人と人との距離を広げた。多くの学生がキャンパスに通うことができていない実態が浮かび上がっているが、入学してから1回も大学に行っていない新入生もいるという。対面授業がなくなった大学生は人間関係の構築に苦しんでいる。そのため、政府は学生に向けた孤独・孤立対策を行った。コロナ禍の結果であった心の健康を保つために、多くの健康支援センターとweb相談などを立ち上げています。

 しかし、精神的·健康的な問題だけでなく、コロナ禍で学生の経済状態によって、厳しさが増加した。経済的な悩みを抱える学生は、学納金や生活費の支払いが困難であることや、学生生活を満足に送るための費用が不足しているなど、その悩みは深刻である。コロナ禍によって、収入が減少し、多くの学生がアルバイトを失った。その影響で、経済的に非常に苦しい状況に置かれるようになった。様々な学生生活調査によると、アルバイトに依存していた学生が、コロナウイルスによってアルバイトを失い、経済的に非常に苦しい状況に置かれている。

 しかも、コロナ禍で学生の経済状態によって、厳しさが増加した。しかも、アルバイト時間は、学生の家計所得とあまり関係がない。多くの学生にとって学生生活でアルバイトをするのが当然なことになった。まず、最初の大きな問題は、学生のアルバイトの減少である。すなわち、学生にとって、アルバイトは学生生活の一部になっており、その収入に依存している学生も少なくない。これらの者はアルバイトをしても学生生活を送ることが困難になっていている。それに対して、様々な支援策が講じられている。例えば、政府は特別な奨学金を発行しており、学生はアルバイトを奨学金などで補充している者も多いことである。しかし、政府の解決策は学生にほとんど役に立たなかった。さらに、多くのスロベニアの学生は、両親の財政支援に依存できない。そのため、休学や中退を考える学生も少なくなかった。また、学生たちは学生寮に強制的に引っ越しさせられ、両親の家に引っ越さないといけなかった。状況は良くなり、学生は寮に戻ったが、まだ学生によっては住宅を見つけることができなかった。

要するに、コロナ禍の影響で学生は厳しい学生生活を余儀なくされている。多くの学生は友達を作ることができない、アルバイトの場を奪われ困窮している。実は、コロナ禍は、長い間、学生に影響を与え続け、それらの多くの問題はまだ解決中である。

留学生として経験した困難について

チョウテイ

 

 1.      はじめに

 コロナ禍が始まってすでに3年ぐらい経ちました。この3年間のうちに、いろいろな困難に直面し、自分の中で解決法を探しながら頑張っています。コロナ禍の中で、留学生特有の経験を語ってみたいと思います。

 

 2.      直面した困難

 直面した困難はいくつかあります。まず、外国語力を鍛えられないことです。コロナ以前は大学で先生たちや同期、それ以外のいろいろな人と会う機会があって、日本語などの外国語で話す機会が結構ありました。コロナ禍が始まって以来、それができなくなり、人と交流することがかなり減りました。外国語で話す機会が減ったためか、聞き取りも下手になった気がします。

 第二に、必要な研究書籍を入手することが困難になりました。コロナ以前は、日本で売っていない中国語の書籍などを休みの時帰国して買えましたが、コロナが始まってから、帰国できなくなり、研究書籍を買うことができなくなりました。これは研究に支障を与えています。

 第三に、親と会うことができず、親のことをとても心配です。昔、休みになると、必ず帰国して親と会って日本のみやげ話も話せました。今は、コロナの原因で、すでに何年間も帰国できず、両親と会うことができません。そして、母親の体が弱く、両親もワクチンを接種していないため、感染されないように毎日祈っています。とても不安な日々の中で過ごしています。

他にもいろいろな困難に遭いましたが、紙幅の関係で一々挙げることを割愛させて頂きます。

 

 3.      解決法

 直面した困難をなるべく人に迷惑をかけずに自分の中で解決しようとしています。

まず、日本語力を維持するために、動画などで日本語の聞き取りの練習をしています。仲間同士の間の研究会などがありましたら、参加することもしています。鬱にならないように、時々、大学内のサークルイベントも参加したりしています。

次に、中国でしか入手できない研究書籍を仕方なく諦めています。大学図書館などを利用して、文献を探します。どうしても自分で解決できなければ、教員と相談してみます。

最後に、親と直接に会うことができないため、仕方なくオンラインを通じて話すことをしています。早く親が日本に来て、日本で病気を治療できればと願っています。

 

 4.      終わりに

自国にいる親や親族と会うことができなければ、集まることもできないというのは留学生しか持っていない悩みかもしれません。アルバイトできず、経済的な面の困難も持っている留学生もいるだろうと思います。早くコロナ禍が収束できると良いです。


コロナ下での留学生活
       11名の外国人留学生の11通りの体験

 


コロナの影響下の日本と中国


彭博文 (国際日本学部研究生 中国)

 2020年の春から、中国の武漢はコロナのため、世界に広く知られていた。あの時、日本に留学し、同じ省の出身である私は、家族を心配しながら、日本の現状に満足した。が、2021年には、却って、家族に心配させ、日本の現状を心配することになった。コロナの影響下、日本と中国の相違点も深く感じた。

 まず、個人と団体について、中国人の認識では、日本人は『団体意識が強い』国であり、歴史上の原因で、政治関係が悪化した一方で、日本人の『団体意識』を見習うはずだ。だが、コロナの影響で、新聞のニュースを見、周りの人々を観察したら、『団体意識』というものは、今の日本人に忘れられたと意識した。緊急状況下、医療従事者の辞職、マスクをつけない人、自粛の宣言を無視し、飲み会を行うなど、日本では全然珍しくない。日本に反して、中国では、医療従事者は、ボランティアとして、武漢を支援し、24時間病院で働いた。『団体意識』というのは、自分自身の行動の『団体』への影響を考えながら、自身を検束することのみならず、『団体』のために自分の利益を犠牲にし、『団体』の利益を成就することである。
 また、自由と強制について、日本は中国より自由な国で、他人を妨害しない限りどんなことしても、社会に納得されることは事実だが、自分の自由のため、他人の利益を妨害する例が少なくない。日本では、強制性規定により民衆の行動を検束することは、まだできない。確かに、最初、中国政府の強制性規定、例えば、特別の職業以外、家から出ることできないなど、よく民衆に反対されたが、この効果が見える。コロナの感染経路を切断し、より拡大することを防いだ。だが、日本に住んでいる私は、日本政府が同じような施策をできないことも意識しました。中国では、団地に住んでいる人、また村(田舎)に住んでいる人は『団体』という形式で集まることができる。同じ団地に住んでいる人は、連絡用の『wechatグループ』があり、出かけなくても、情報を共有できる。さらに、買い物も、グループを中心として、一緒にネットで注文することできる。日本では、『連絡』が少ない、隣に住んでいる人さえ、連絡先を知らないことは珍しくない。自由を主張している民衆は、コロナの怖さを意識せずに、マイスタイルで生活している。現在の日本におけるコロナの感染人数が減った一方で、中国ではもうマスクをつけないまま、自由に生活できるようになった。
最後、日本は、今でも強国である一方で、コロナに対して『医療が発達』の優勢を表せなかった。返って、人数が多い中国は、短時間内で、感染人数を控えたことに、中国人としての私も驚かされた。

 



自宅にいても勉強に集中できるようにする試み

柏 匡 (大学院博士後期課程1年  中国}

 

 昨今のご時世の中、コロナ禍第5波においては行動制限が課されて、外出しようとする度に、「本当に外に出る必要があるか」と自問して出かけることを戸惑っていました。そのせいか、感染が比較的落ち着いている今も、出かける前についつい同じような思考パターンで外出する必要性を考えてしまいます。本来気軽に行けた大学の図書館にも最近ではあんまり行かなくなりました。自宅で勉強も研究もある程度できるので、なるべく他人と接触しない自宅で勉学に励んでいますが、どうしても効率が悪くなります。というのは、図書館には同じ勉学に没頭する人がいるので、少しさぼろうと思っても周りの人がみんな勉強しているので、自分も負けじと勉強しなきゃと頑張りたくなります。しかし、自分の場合は家にいると勉強に集中しようとしても30分ぐらいが限界で、すぐスマホをいじったり、テレビを見たりして、勉強を長く続けることが難しいと感じました。
こうして家にいると散漫しがちな自分でも最近色々工夫して、次の点に注意しながら、できるだけ家にいても勉強に集中するようにしています。

 (1)早寝早起き
 まずは基本的な生活リズムを作らないといけないと思います。一日中家にいると、誰かに時間を合わせることや図書館などの施設の利用時間に気を遣うことがほとんどなくなります。そのため、勉強時間と睡眠時間を自由に設定することができますが、これが往々にして生活リズムが乱れる要因になると思います。特に寒くなりつつあるこの季節では朝寝坊して、暖かい布団から出られず睡眠時間を多く取ってしまうと、大事な朝という勉強に適した時間帯を無駄にしてしまうことになります。自分にとっては、起きる時間が遅ければ遅いほど、勉強に対する意欲も下がっていくので、なおさら遅起きが禁物に感じました。

 (2)スマホの電源を切る
 勉強する時は手元にスマホを置いておくと、ついつい手をそこに伸ばしてしまいます。確かスマホにはいろんな勉強を助ける機能がありますが、ゲームや娯楽などの機能も同時に備わっています。たとえ最初はスマホで単語や資料を調べようとしても、いつの間にか動画を見たり、ゲームをプレイしたりするに使ってしまう経験はよくあります。このような注意力を勉強からそらす機械の電源を切ることで、少しでも勉強に使う時間を増やすことにつながると思います。

 (3)適宜に気分転換
 勉強はもちろん学生にとって大事この上ないことですが、1時間以上もすれば効率が自然に落ちてくると思います。そういう時には、家の周りを散歩したり、自炊のためにスーパーに買い物しに行ったりするといいと思います。こうした気分転換はぴんと張りつめた神経を和らげられると同時に、一日をより充実したものにすることも可能になると思います。

 以上3点が最近勉強に集中するために自分が実践している試みです。「言うは易く行うは難し」のことわざ通り、ただ口先で言うのは簡単かもしれないが、毎日決めたことを実践することは本当に難しいと思います。
 


自分自身と向き合う

韓 昇熹(大学院博士後期課程4年  韓国)

 コロナ渦で人と会う機会が普段より少なくなり、一人で暮らす時間が長くなった。私は、生活の大半を、興味のあるテーマの学術的なシンポジウムへの参加や志を同じくする仲間たちとの勉強会への参加準備に使っていた。しかし、現在ほとんどのシンポジウムがオンラインで行われている。また、zooomで勉強会をしている勉強会もあるが、その他の勉強会はコロナ事態が落ち着くまで延期することになった。一生懸命に勉強をしても意見交換を行う機会がないので、勉強への意志・意欲が弱まっていくのである。
 ここで、考えてみたいものがある。勉強会の中止などで学問に対する意欲が下がるということは、自分のなかで誰からも評価されたいという気持ちがあることを意味する。評価されたい欲望自体は悪いものではない。誰だって持っている感情であり、研究を続けるモチベーションとなることもあるだろう。しかし、評価されたい欲望の裏に隠されている感情も見据える必要がある。誰からも評価されたい気持ちというのは、裏を返せば、誰よりも優秀である優越感を感じたいことにもつながる。ここまで話が進むと、優越感を感じるために勉強をしているかのようにも考えるようになる。
 なぜ、そこまで追い詰めて考えるようになったかというと、誰のための、何のために私は勉強をしつづけているのか、ということについて考えこむことがよくあるからである。どこにも行かず、一人でごろごろする時間が多くなってきたから、しばしば今までの自分がやってきたことを振り返る時がある。言い換えれば、自分自身と向き合う時間が長くなったということである。勉強会ができなくなったことについてなぜ、それほど悔しく思ったのか、もしかして、誰かに見せるための勉強をしてきたことではないのかということに気づいたからである。本来、誰でも教えてくれない自分自身の問いに対する答えを探すために勉強をはじめたはずである。一刻も早くコロナ渦が収まることを願いながらも、コロナ渦は人々の移動を統制しているようだが、このように自分自身の研究と向き合う機会を与えたという点では得るものもあるようだ。
 ワクチン接種率が全国民の70%以上に達したにもかかわらず、韓国ではまだコロナ感染者が増えるばかりである。ワクチン接種さえできればコロナ渦は落ち着くだろうという予想は見事に外れてしまった。それは、比較的ワクチン接種率が高い欧米でコロナ感染者が増えているというニュースを見ても明らかである。
 しかし、なぜか日本ではコロナ渦が落ち着いて以前のように飲み会もできるようになり、まだ少人数であるがわいわい皆で話す機会が増えるようになった。オンラインで行われるシンポジウムは移動する手間と費用がかかることなく、有益な情報をすぐ手に取ることができる点では大変便利だが、やはり対面で行われないと議論が盛り上がらないだろうということを改めて実感するところである。いつかまた自由に海外に行って様々な国々の研究者と交流する夢見る日々を過ごしている。

 


コロナの下での留学

林燕燕(大学院博士前期課程2年 中国)

 私は2020年4月に博士前期課程に入学した中国出身の自費留学生です。入学したんですが、修士1年のほとんどの時間は母国で過ごしました。それは、コロナの影響で日本に入国禁止とされていたからです。
 そのため、留学しているとはいっても、留学の実感はまったくなかったです。毎日オンライン授業を受けており、インターネットの通信状態が不安定で、Zoomにつながれないこともしばしばあった。授業が終わったら先生、同級生とは会えなくて、コミュニケーションもほとんどなかったです。その他に、研究用の資料はなかなか手に入れなくて、研究は進んでいなかった。以上のようなことで、私の1年目の留学生活といえば、精神的な面につらいところが多かったです。
 その後、日本の水際政策が緩和され、ようやく日本に入国することができました。学業が順調に進めるようになりましたが、また新しい問題に直面しました。コロナの影響で、家庭からの送金が減少することに加えて、前のバイトを継続することができなくなり、経済的に厳しい状況に陥りました。このような厳しい状況を乗り越えようとして、生活の支出を削減する一方、難しくても新しいバイトを探しました。
そして、こんな難しい時期の中で、学校から温かい支援をいただきました。生活給付金と生協食券の配布、フードパントリーなど様々な支援を行っていただきました。このような支援のおかげで、経済的困難を乗り越えることができるだろうと思います。本当に助かりました。
 今後の留学生支援への要望としては、育児と学業を両立させる自費女性留学生に生活給付金を配布していただきたいです。このような留学生が育児のために必要なバイトができないし、奨学金の申請もなかなか難しいです。そのため、経済的な支援がなによりも必要です。経済的不安が解消できれば、精神的不安も大きく解消できると思います。
 その他に、日本での生活に関する情報、特にバイト情報の発信をして頂ければ幸いと思います。特に日本に来たばかりの留学生にとっては、まだ日本の生活に慣れていないので、バイトを探すのが難しいです。学校側から確実なバイトの情報をいただければ、バイトも速く見つけられるし、日本での生活にも速く慣れるようになると思います。



コロナの下での留学

チョウ カンゲン(国際日本学部3年生 中国)

 

 新型コロナウイルスは人々の生活に莫大な影響を及ぼしています。毎日マスクを着用したり、社交距離を保ったりすることは、もう生活の一部になりつつあります。留学生として、このようなことはもちろんありますが、他にもいくつかの困難に出会っています。
 例えば、去年の一年間母国に居たので、ビザの期限が過ぎてしまいました。そのため、しばらく日本への再入国はできない状態になりました。その時点はちょうど春学期の始まりなので、やむを得ずすべての授業をオンライン授業にしました。一方、春学期の授業のほとんどはオフラインで開講されていたので、受けようとしても、なかなか受けられないのは現実です。これを乗り越えるには、何人かの先生と50通ぐらいのメールを送り、二人の先生の許可を得て、対面の学生と一緒にオンライン授業を受けました。また、秋学期は日本に帰ったら、春学期より倍以上の授業を受講して、失ったものをできるだけ補うように頑張っています。
 もう一つ問題になったのは、賃貸の部屋です。私は日本にいないにもかかわらず、家賃は毎月引き落とされます。誰も住んでいないのに、ただお金を払っているのは、少しもったいないなと思いました。しかし、契約を重視する日本では、私の都合でお金を支払わなければいけないので、ずっと支払い続けてきました。私は中国でアルバイトをし、稼いだお金を部屋の賃金に使いました。日本に帰った日、まず一つ目にやったのは埃まみれの部屋を掃除しました。幸い、ゴキブリは発生していませんでした。
 今年の秋、やっと日本に帰ることができ、一年ぶりに友達に会えるのはとても嬉しかったです。みんなの笑顔は私の励ましになります。同時に、コロナ禍の中の日本は、中国と違うところも感じました。日本はもし感染者が出た場合、その人は重症ではない限り、自宅療養をさせるケースがよく見られます。それに対して、中国ではたとえ一人の感染者が出たとしても、その地域のすべての人は全員PCR検査をしなければなりません。自宅療養は絶対させません。自宅療養をすると、周りの人に移る可能性が高いので、早いうちに病院に入れます。また、電車に乗る時、周りの目に気にせず、全くマスクをしないおじさんをたまに見たことがありますが、大多数の人は、きちんとマスクを付けているので、安心できます。
 コロナ禍の中、数多くの人は大変な生活を送っていることはよく知っています。一日も早くコロナ禍は収束できるように心から願っています。


コロナの下で書いた修士論文

陈佳涵(大学院博士後期課程1年 中国)

 

 コロナの発生からもう2年が経ったのだ。昨年のこの日、私は修士論文に悩んでいた頃だった。あれから1年、春に咲いた桜も、秋に火のように赤く染まった紅葉も、冬の積雪の富士山頂も、私の記憶の中に何の痕跡も残していない。でも、226教室だけが、今までの思い出の中には、そのぽかぽかの暖房の暖かさと、耳の傍に響いていたクラシックのミュージックをずっと、感じさせてくれた。
 論文を書くのは決して簡単なことではない、と私はこういう実感を持っている。最初の資料収集段階さえも、コロナの影響が私たちの生活至る所で及ばしたと感じた。図書館は閉まったので、読みたい本が他の図書館から私の手元に回ってくるのに1週間掛かった。既に手元に届いたけれど、目の前の文字を見ているとすぐ眠気を感じた。去年の夏休みに私は論文を書く準備を始めた。むしゃむしゃした部屋に私は落ち着いて文章を書くことができなかった。だから学校が開いている時はいつも学校に行っていた。食堂も毎日開いているわけではなかったので、私の記憶ではその時あまり食事をちゃんと取ってなかった。多分、論文のプレッシャーで、お腹が空いていることすらも忘れそうになったかなと思っている。
 その後、学校では夏休みにフードパントリーがあり、たくさんの食材が配られた。私はいつも3~4個のバッグに、ゆっくりと十数キロの食料を詰めて持ち帰った。学校のガレリアで、人の背丈の半分もあるポテトチップスをチャンピオンのように持って立っていた。あれはあの夏休みの中で最もすばらしい記憶であり、そばの友達はみんなすべて私に対して羨ましい眼差しを投げてきた。ところが、すぐに指導教官が何処か急に出てきて、「論文は今どうなっている?」と私に声を掛けた、それも忘れられない記憶の一部である。
 夕方の頃、いつも本を持って公園に行って勉強した。 家よりも公園の方が涼しかったから、 夕方になると風が吹いてきて、池で泳ぐカモの姿が見えた。ただし、虫よけは必ずつける方が推奨なのだ。ところで、公園でニーチェの『ツァラトゥストラはかく語り』を読んでいたのを覚えている。なんか野獣を描写するシーンを読んでいると、まるでその場にいるように臨場感があり、そしてニーチェの「永劫回帰」という言葉に込められた深い意味が感じられる。ということで、私は非常に困難な状況で論文を書いている、ということがある。 夏よりも冬の方がもっと大変だった。暖房を使わないため、その時脳が凍りついたようになり、頭の中にそもそもたくさんあるはずの思考の泉もどんどん流れ出なくなった。 論文を書く上で、その頃は最も生産性の低い時期であった。 特に締め切り前の1週間、元旦あたりのことだ。 毛布にくるまってベッドで震えていたし、元旦というと学校が休みだったので、しょうがなくて一日中寒い部屋に閉じこもっていた。
 今一度、私の論文を振り返ってみると、これは今までの人生の中で最も完璧に書かれた作品だと思う。私の論文が指導者先生たちの心に響いたかどうかはわからないが、今、私は論文を書いたその辛かった経験に涙ぐんでいる。そういえば、コロナがなかったら、私の人生はどう変わっていたのだろうか?



              体験と観察を通じての提言

チンセン(国際社会学部4年 中国)

 

 今回のコロナにより、様々なイベントや活動が中止を余儀なくされました。多くの留学生が日本に入国できなくなり、遠隔授業を通して授業を受けるようになりました。また日本で在住の留学生の多くも、経済的な困難に直面するようになりました。たとえば、コロナの前にはアルバイトにより生活費を補う留学生が、シフトさえ入れることができれば生活費に困ることはありませんでした。しかし、コロナが来たあと、アルバイト先(特に飲食店)にとって人を雇うことがマイナスな面が多く、シフトを入れなくなったり、そして新規のアルバイトを見つけにくい状態となりました。最悪の場合、条件のよくないアルバイト(大学から遠いなど)を無理やり入れると、勉強に悪影響を及ぼすことになります。以前私の観察では、アルバイトがないとまったく生活できない留学生が、条件がよくなくてもアルバイトをしたり、そのため授業でもかなり疲れが出そうで、時々寝てしまいます。そんななかでも、授業で目覚ましのためたくさんの方法を試しました。
 今回のコロナは留学生だけではなく、日本人にもよくない影響をできいますが、しかし学生向けの支援や、大学内の援助がたくさんありました。日本にこれない学生にも遠隔授業で助けてあげました。大学内の相談のためのところをはじめ、フードパントリー、食券配布、さらには大学内の100円朝食もありました。その中でもっとも助かったのは、大学内の100円朝食と夜のお弁当です。私は、生活費を節約するとき、よく食事から節約しようとしていますが、どのようにバランスを考えながら節約することがよく知りませんでした。この100円食事がはじまる前に、私はよく近くのコンビニではなく、遠いスーパーでの食材を買っていますが、たまごとスパゲッティだけで、食材の種類は決して多くありませんでした。またお肉と魚はあまり買いませんでした。しかし、大学で販売された食事は、とてもバランスがよくて、魚もあってとても助かりました。
 この体験と観察を通して、わたしが日本での留学生に対する支援は、とても多いと感じて、留学できてよかったと思います。コロナは自分の留学生活に対しては一つの困難ではありますが、さまざまな支援によりあたたかさをも感じた機会でもあり、困難を乗り越えて成長する機会でもあります。もし一つの提言をするならば、私は衣料面での支援を提言したいです。私の観察では、古布として捨てる服の中でまだ着ることができることが多く、また大学での交換留学生が帰国する際にいらない服も多いと考えられます。そのような服を古布として捨てるのではなく、留学生支援会により集め、服を必要としている留学生に配ることはいいことかもしれません。これは衣料面の支援になるだけではなく、留学生支援会に金銭的な負担も少ないと思います。さらに、服をあげる人は小さなメッセージカードを書きたい場合中に書くと、服をもらう留学生もそのつながりを感じることがきできると思います。


コロナの下での留学生活

ユウティンティン(大学院博士前期課程2年 中国)

 2020年初、新型コロナウイルスが日本国内で拡大し、私たち外国人留学生の生活に大きな影響を与えた。これから、私が色んな面で受けた影響を述べたいと思う。
まず、元々2020年2月に1年ぶりに帰国しようと思っていたが、コロナのせいで、飛行機のチケットをキャンセルされて、結局帰れなかった。今でも帰りたくても、飛行機のチケット代が高いし、中国国内で2ヶ月くらい隔離しないといけない、総合的に考えたら、やはり帰らないようにした。母国から離れてもうすぐ3年目になる。これからどうなるか分からなくて不安を感じる。
 また、経済面に関してもいろいろ変わった。バイト先がドラッグストアで、いつも観光客に依存して営利している。しかし、コロナで観光客が入国できず、店がだんだん赤字になり、スタッフの給料も負担できなくなった。そのため、店の中のアルバイトしている人が全員解雇された。その後、新しいバイトが見つかるまで、結構苦労していた。家の近くにあるところは外国人より日本人を優先に雇うし、給料も都内より少ない。飲食店やアパレルなどを含めて14回の面接も受けて、やっと今のアルバイトに受かった。アルバイトがない間、府中市のフードパントリーという活動で食材や日用品をもらって何とか生きてきた。本当に心から感謝する。
ほかに、対面の授業がオンラインの形になって、通学が必要でなくなっていいのだが、在宅時間が長くなったから、寂しくてたまに独り言を喋るようになった。特に緊急事態宣言でお店は全部20時までになって、人が少なくて見たことない寂しい新宿が見えた。いつ普通の生活に戻れるだろうか。マスクを外したい、友達と旅行に行きたい、留学生活を楽しめたい!
 しかし、現実的にコロナがいつ収まるかわからない。これから、人類とコロナが共存する世界になるかもしれない。私たちができるのは、現実に負けず、自分にふさわしい未来を自分の手で作ることである。人類は意外と丈夫なので、いつか絶対コロナに勝つと私は信じている。
以上、私がコロナの影響を受けて経験したことである。

              コロナから立ち直った私

ショウシキン(大学院博士前期課程 1年 中国)

 コロナウイルスは2019年12月以後、中国湖北省武漢市を中心に発生し、短期間で世界に広がってしまったウイルスである。そして、中国の隣国である日本ももちろんこのウイルスの侵食から逃げられなかった。去年の4月に日本での感染者数が爆発的に増え、日本政府は緊急事態宣言を出した。
 この緊急事態宣言に伴って、日本でのニュースはコロナウイルス関連のものばかりになってしまい、そしてウェブで見られるニュースのコメント欄には中国人の悪口を書く人もたくさんいた。私は中国から来た留学生だから、このような差別的なコメントを見て、非常に心が痛んで一時的に落ち込んでしまって、生活も暗く感じて、何もしたくなくなってしまった。
 そして、このような状況で、私を立ち直らせてくれたのは、まず私の生徒たちだった。私はアルバイトで中国語を教えているが、以前から教えてきた生徒たちはこのような出来事が発生したにもかかわらず、中国語を習うのを諦めることなく、逆に私の家族や私に気を遣ってくれた。「ご両親は大丈夫ですか」と聞いてくれた。そして、コロナ期間中で新たに中国語の勉強を始める生徒もいた。彼の目標は中国に旅行に行くことだった。私は最初「なんで中国を嫌わないの?なんで私を差別しないの?」と不思議に思いながら、授業をオンラインの形で提供し始めた。それから、生徒たちの明るさに影響されて、だんだんネガティブな気持ちから目覚めた。そして、私は周りの日本人が本当に中国人である私のことを嫌がるのかを確かめようとした。その観察の結果は喜ばしかった。
  いつも通っている食堂のおじさんはいつも通り美味しい料理を作ってくれた。
  いつも利用している散髪屋のお姉さんはいつも通り綺麗に髪を切ってくれた。
  大学の先生や友人はいつも通り親切に接してくれた。
  大家さんはまた手作りのケーキを焼いてくれた。
  日本政府は多額の学習支援金を出してくれた。
 私が中国人であることにもかかわらず、周りの日本人は私に文句を何一つも言わずに私の留学生活を支えてくれた。これに気づいた時、私は久しぶりに微笑んで、そしてこう考えた。「生活の暗い一面だけを見てはいけない。ドイツ哲学者のシラーが言ったように、「太陽が輝くかぎり、希望もまた輝く!」。太陽がまだ輝いているから、落ちてもまた登ってくるから、私も立ち直って、日本に住んでいる一人の人間として全身全霊で応えないといけない」と思った。中国や中国語に興味を持ってくれた生徒たちに、私の生活を支えてきた人たちに、そして、何よりもこの日本社会に。

               コロナの下での留学

S(大学院博士後期課程2年)

 

 0.はじめに
 前回帰国してから5年目になった。
2019年の11月に航空券を購入して一時帰国の準備をした記憶は私の中にまだ鮮明に残っている。2年ぶりに帰国することを思うと眠れないぐらいワクワクしていた一ヶ月だった。しかし、同年度の12月初旬に第1例目の感染者が報告されてから、コロナは僅か数カ月ほどの間にパンデミックと言われる世界的な流行となった。そのせいで未だに帰国できていないまま。
往復の飛行機チケット代が60万円を超えているほか、日本の入国時の水際対策とは違って、中国は14日の自主隔離だけでなく、14日の自費隔離(政府指定の宿泊施設での隔離)もあるので、更に30万円ぐらいがかかる。23万円の学費を捻出することすらできない私にとっては、帰国は夢になった。
本小論文では、この帰国できないコロナ禍のなかで体験した留学生活の困難について少し語りたいと思う。

 1.2種類の「オンライン留学」
 新型コロナウイルスの感染拡大によって去年の3月以降、留学生をはじめとする外国人の新規入国は原則停止してきた。大学における学生交流の動きも無論止まった。
私の友達の中には、受験して合格して以来、2年間にわたって母国で待機している女の子もいる。彼女は私の留学体験を聞いて妬ましさを感じる一方、私はせっかく日本に来たのに対面で先生や友達と会えないということに苦しみながら終わりの見えないZOOM授業を受け続けてきた。
 母国にいながら遠隔で日本の大学の授業を受ける友達は、留学できているが日本にはまだ来られないまま。日本にいるが遠隔でしか大学の授業を受けられない私は、留学できてはいるが日本に来た実感はない。多彩なキャンパスライフどころか、毎月の家賃と生活費を稼ぐだけで精一杯だった。
 留学は、ただ言語や知識を得るだけでなく、現地の人との交流や、文化に直接触れることもできるという点が一番の特徴だと言われるが、このような「オンライン留学」は本当に満足に欠けると思う。しかし、このような特別な体験も、十年後、二十年後に思い出すと大変貴重な思い出になるのではないかと思われる。
 
2.経済面
 現在は世界各国がコロナ危機による落ち込みから回復の動きを続けているが、言うまでもなくこの2年間はコロナで経済的な打撃を受けた人は少なくなかった。私は学生であって大きな経済的損失とは言えないが、コロナで仕事を失い、収入が半分以上減ったことがあった。
 2018年の春から、私は大学との連携で、ユニクロの本社で中国から研修に来た中国人店長たちに日本語を教えるプロジェクトに参加し、約2年間ぐらいそこで日本語を教えていたが、コロナの影響で中国にいる店長が来日できず、そのプロジェクトはやむを得ず無期限休止になってしまった。そのため私は仕事を失い、一時期貯金だけで生活することになった。
 無収入期間中の面白いエピソードとして挙げられるのは、ある日毎月3400円の国民健康保険料の支払い用紙が届き、そんな余裕がないので急いで市役所まで行って税金の免除を申請した結果、翌月に改定後の支払い用紙が届いたが、前年の収入が割と高いので、月に7100円になってしまった。当時は本当に困っていて、その新しい支払い用紙を手に握ってバスで移動中にもかかわらず涙がボロボロと落ちていたが、今は面白い留学体験談としてたまに人に言うようになった。

 3.コロナの下での婚活
 今まで恋愛経験なしの私は、今年の10月1日から、29才になった。
 女の子としてはそろそろ婚活しなきゃいけないかなとか思う年齢だが、コロナで良い出会いがなかなかないので、今年の3月にいったん帰国してお見合いとかしようかと思ったが、冒頭に述べたように、帰国が困難な時期でもあるので、今は学業を優先して博論に没頭している。
周りには、同じような境遇にある友達が何人もいるので、みんなで励まし合いながら頑張っていきたいと思う。

 4.終わりに
 以上、コロナの下で私が体験した困難などについて述べてみた。色々とあったが、人生は様々な体験・経験を経て、彩りを得る過程だと思うので、特別な人生体験として大切にしていきたい。

 

コロナ下の友情

楊柳岸(大学院博士後期課程3年生)

 

 いまでも、2019年12月31日の夜、友達たちと一緒に家で手作りの火鍋を食べながら、テレビ番組を見て、翌日一緒にディズニーランドで楽しく遊んでいたシーン、また、その時、2020年は良い年を心から祈っていた気持ちをも鮮明に覚えている。しかし、そのあと、全世界は変わった。最初の時、コロナがもうすぐ収まると思ったが、緊急事態宣言によって、はじめて、コロナの恐さを実感した。特にオンライン授業が始まった後、日常的な生活もできず、友達たちと会えず、毎日狭い部屋に閉じこもっており、外での時間もマスクを掛けなければならない。長い間、国の両親に会いたくても帰れない。こんな毎日を送っていた私の精神状態はだんだん悪くなって、鬱病の傾向も出てきた。
 昨年の6月、梅雨の季節に弱い私は太陽の光さえも楽しめないため、一人泣いたりして、抱え込んで、人生の意味とは何だろうなどの問題ばかり考えていた。その時、外大の知り合いとの話を契機に、一緒にzoomで読書会を始めました。その中には、コロナで中国に滞在していた後輩、同じゼミの知り合い、他の大学の人もいる。一緒に興味のある本を読んで、好きな話題について話す。皆は多少コロナの関係でストレスがたまっており、落ち込んでいる。しかし、こういうオンライの時間のお陰様で、面白い話をまわすことによって、憂鬱がすこしずつ紛らされる。
 生活の面では、コロナの関係で大きな影響を受けた。私はもともと中国人向けの塾でバイトしていた。入国制限の関係で、塾の営業は影響された。その結果、私の収入もだいぶ減少した。それまでの生活は裕福とはいえないが、好きなままに生活をしていた。お金のことで心配したことはなかったので、貯金も殆どなかった。正直に言うと、昨年にいたって、「諸行無常」という意味がはじめてわかってきた。この先の道への不安を抱えつつ、一人で生活を維持しなければならない現状に直面している。読書会の友たちはいろいろな節約術を教えてくれた。毎日の生活費も大幅に減少した。その上、外大は様々な支援を提供してくれた。何回も開催されたフートパントリーは本当に役に立った。毎日の食事を安く済ませることができた。
 今現在、コロナ生活はまだ続いているが、私は昨年ほど怖がっていない。何故ならば、一緒に闘う友達がいるからである。それだけではなく、災難に対抗できる勇気を持っているからである。「塞翁が馬」という諺のように、災難はある意味では、転機ともなれる。これからも、より積極的に窮境とピンチに向き合って、そして、友達と一緒に手をつないで乗り越える。
 

 ISEP生として2020年11月末入寮したドイツ人学生からウエルカムキット事業への礼状

 

 私の来日は大変な困難を伴うものでした。
そもそも東京外語大学のご担当者さまから、必要書類(誓約書)をお送りいただいたのは、ドイツ出国の約二週間前で、そのため私は非常に長い期間、留学が実現するのかどうか、不安な日々を過ごすこととなりました(もちろんコロナ禍中に留学生を受け入れることで生じる、大学側のリスクはお察しいたします。また、来日を望む全ての留学生にとって、受入機関の負担となるのは本望ではありません)。
 くわえて私の家族も、私の留学に不安を抱き、断念するよう勧めてきました。

 それでも私は留学を諦めませんでした。
 入国後の経験は、出発前のそれより良かったです。
成田空港、送迎用タクシー、国際交流会館、いずれの場においても、出会った人は皆親切で、敬意をもって私に接してくださいました。留学開始時の膨大な書類作成も、大学の方のご助力のおかげで無事に済みました。

 先生がお尋ねになられた会館での自己隔離期間も大変快適でした。
 ドイツの一般的な下宿よりも多少手狭な印象は受けましたが、設備はとても整っていたと思います。冷蔵庫はドイツのより高性能で、個人部屋なのに浴槽が付いていた点に感動しました。
 規則上、外出出来なかったのが辛かったですが、家族に電話を掛けることで気分転換いたしました。くわえて自己隔離期間中には、食事や生活必需品もご支給いただきました。もしこのご高配がなければ、私はいったいどうなっていたでしょう。
 ドイツから日本までは非常に遠く、飛行機には重量制限もあります。来日後に自分で買おうにも今はそれすら出来ません。
 一応、ドイツから「お米」を持参していたのですが、入管法の関係で入国時に捨てざるを得ませんでした(事前に関連Webサイトを確認していたにもかかわらず、私は日本へのお米の持ち込みが禁じられているのを知らなかったのです)。
このような状況下で、留学生支援の会のお差し入れは大変心強く、おかげさまで安心して生活することができました。
 留学生課の方々が、外国人の食の好みに留意してくださっていたのも嬉しかったです。
 以上の支援をご提供くださった皆様に、心よりお礼を申し上げたく思います。

 ところで、先生は先日お会いした際、私に「新しく来る留学生に関する提言」も求められました。ですので最後に、ご支援ではカバーしきれなかった点も書き添えさせていただきます。
 まず、食事につきまして。日本人の平均的な食事量は、外国人にとっては「少なく」感じられるようです。また、焼き菓子のご提供は本当に嬉しかったのですが、実用性の点ではインスタントラーメンに軍配が上がりました。
つぎに掃除用具につきまして。自主隔離期間中、私はスポンジや洗剤などの掃除用品を通信販売で購入しました。これはお貸しいただいた部屋を清潔に保つためです。
 また自炊は大変だったので、ナイフも注文しました。

 色々と書かせていただきましたが、このメールが少しでもお役に立てば幸いです。
 改めて暖かいご支援ありがとうございました。
 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 

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